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お店の歴史


1968年以来、50年以上にわたり地域のみなさまに愛される、洋菓子セキヤの歴史を年表と社史でご紹介します

長くお付き合い頂いているお客様には「懐かしさ」を、新しいお客様には「そんな歴史があるのね」と思っていただけると幸いです。

以前の工場と店舗の写真。工場の壁面には創業時の和菓子屋時代を物語る、手彫りの木の「関矢製菓」の文字が特徴でした。

年表

 
出来事
戦前 初代関矢媾一が新宿中村屋にて修行
1949 北区昭和町にて菓子(ロシアケーキと最中)の製造卸を始める
1962 荒川区西尾久に新工場を建てる(ロシアケーキ・最中)
1964 4/10 株式会社関矢製菓となる(和洋菓子製造販売)
代表取締役 関矢媾一
1968 工場の隣に新店舗を建て、洋菓子セキヤを開業
  *卸をしていた当時住み込みで働いていた金井氏が関矢製菓退社後、目黒区の
マッターホーンに入社。そこで会得した洋菓子の技術を、マッターホーンの
社長の了解を得て、関矢製菓の社員に指導し、洋菓子店として開業の運びとなる。
喫茶スペースも併設。
カルピスバターを使用(セキヤロール、ダミエ、グルノーブル、サンレモ、マッターホン、サブレなど販売開始)
1974 二代目・尚文入社
1976 尚文が金井氏の経営する相武台前のモンテローザ(現在は閉店)にて修行
1979 北区豊島に2号店(豊島店)を開業
1987 土地再開発のため立ち退きとなり豊島店閉店
1988 北区田端新町に新店舗の田端店を開業
開業時にマッターホーンの社員を出向の形で招き、新規立ち上げの協力を頂く(約2年)
2005 田端店閉店
2006 代表取締役が関矢照子から関矢尚文に変更
2007 尾久店改装工事。喫茶スペースをなくし、販売のみに。
元々包装紙のデザインになっていた天使、王冠などを改めてロゴとして採用
  9/15新装開店。ラッピングギフトの販売開始。
2008 あらかわ遊園マドレーヌ販売開始
2009 看板商品のロールケーキをセキヤロールと改名
2010 おぐっこシュー販売開始
2011 尚尊が洋菓子セキヤに戻る。
  手描きイラストプレートのデコレーションケーキの販売開始
  都電フィナンシェ販売開始
2014 新工場完成。
2017 代表取締役が関矢尚文から関矢尚尊に変更。
2019 フードプリンタ―導入・シュガープリントクッキーのデコレーションケーキの販売開始
2020 LINEでの予約開始

株式会社関矢製菓社史 ~洋菓子セキヤの軌跡~

 

1 株式会社関矢製菓のルーツ

荒川区の西尾久にお店を構える「洋菓子セキヤ」は、親子三世代で通ってくださるお客様がいるほど、長きに渡り歴史を刻み続けています。お客様への感謝の意を表すとともに、洋菓子セキヤを運営する株式会社関矢製菓のこれまで歩んだ道を振り返っていきます。
 
株式会社関矢製菓の起源は、戦前まで遡ります。三代目社長・尚尊の祖父である創業者・関矢媾一が長野県から上京して、1901(明治34)年創業の老舗食品メーカー「新宿中村屋」で奉公を始めたことがきっかけでした。「新宿中村屋」の主人と、媾一が通っていた長野の尋常小学校(明治維新から第二次世界大戦勃発前までの初等教育機関の名称)の恩師が同郷であったため、その紹介により住み込で働かせてもらうこととなったのです。媾一の「新宿中村屋」での仕事内容は、販売から始まりましたが、パンの製造など製造面にも携わるようになり、その後チョコレート部門に異動。来日していたロシアのチョコレート技師から、ロシアケーキの技術を学んだ56人のうちの一人が媾一でした。
しかし、媾一は第二次世界大戦で満州に徴兵されてしまいます。3年ほど満州に滞在し、帰国した後は、鉄鋼会社に勤めて終戦を迎えました。その当時、軍需産業の会社に勤めていたら徴兵が免れたということがあったそうです。
 
終戦後、鉄鋼会社時代の同僚が住んでいた場所が空いたために、媾一は北区昭和町に移り住みました。馬に荷物を引かせて運ぶ職業である馬方の仕事もしましたが、お菓子技術を習得していたため、1949(昭和24)年にお菓子屋をスタートさせます。その当時から屋号が「関矢製菓」だったかは、今となっては不明です。
当時は配給制だったため、一般の人が持ちこんだ小麦粉などの材料でお菓子を作り、加工賃をもらう「委託加工」という形の商売だったそうです。その後、物資が入るようになってからは、委託加工から製造卸に切り替え、ロシアケーキ、最中を製造してお菓子屋に卸すようになりました。現在のコンビニエンスストアのように、駅前の一等地に駄菓子屋ではなく、高級路線のお菓子屋さんが多く存在したそうです。
 
最初は媾一が一人で始めた商売でしたが従業員を2~3人を雇って、徐々に和洋菓子の製造卸が繁忙するようになると、従業員も増えていきました。北区の住宅兼工場が手狭になると、ほど近い西尾久に先に住居を移しましたが、卸業が盛況になって製造が間に合わなくなると、生産拠点を広くするため、1962(昭和37)年、西尾久の住居の横に新工場を構える形で移転します。
高度経済成長期だった当時は当たり前だった集団就職で、若い男女の従業員が4~5人ほど、工場の裏に建設した社宅に住み込みで働いていました。通勤の従業員も含めると従業員規模は10人ほどで、ドライバーも勤務していたそうです。そして1964(昭和39)年4月に関矢製菓は株行会社化することとなったのです。
 

2 :洋菓子セキヤの開業へ

高度経済成長期に世間の味の嗜好が高級化してきたことで、関矢製菓は、庶民派の和菓子より、高単価な高級洋菓子の製造に切り替えていくこととなりました。そのきっかけを作ってくれたのは、かつて関矢製菓に住み込みで働き、その後目黒の「マッターホーン」に入社した金井氏でした。洋菓子が世の中のトレンドであることを教えてくれただけではなく、洋菓子の技術を関矢製菓に伝授してくれたのです。その当時、媾一は体調を崩し経営面のみに携わっていましたが、金井氏は、「マッターホーン」の業務終了後に、「マッターホーン」の当時のサブチーフであった谷川氏(その後関矢製菓に一年ほど勤務し独立)と共に荒川区まで通い、関矢製菓の職人に技術を教えてくれました。その背景としては、媾一が金井氏の結婚の仲人であったため、金井氏から媾一への“恩返し”だったそうです。
 
1~2年は既存のお客様とのお付き合いもあるため、ロシアケーキ・最中も並行して販売をしていましたが、洋菓子の売れ行きが好調だったことから、洋菓子に専念するようになります。自店舗販売ならば、現金化が早く経営面でもメリットが大きかったため、1968(昭和43)年2月に「洋菓子セキヤ」を開店する運びとなりました。
卸は、約束手形や小切手支払いですぐに現金が入ってこなかった上に、返品制度により、仕入れるだけ仕入れても、売れなければ返品されるため、利益を出すことが困難だったそうです。さらに、高度経済成長期による交通渋滞で、配送事情でも困難に直面していました。
卸から撤退したのと同時にロシアケーキ・最中の製造もストップし、その影響で従業員の規模も縮小していきました。
そして、洋菓子セキヤの開店と同時に、4卓で20人が座れるほどの喫茶スペースを併設し、サンドイッチやトーストの軽食からコーヒー、紅茶、パフェなどを提供していました。当時は町工場や自営業者も多く、ランチ目的でのご来店も多かったようです。
 
洋菓子セキヤで販売を始めたロールケーキ(のちのセキヤロール)、ダミエ、グルノーブル、サンレモ、マッターホン、サブレのレシピは、すべて金井氏直伝のものです。また、今もなお、セキヤの多くの製品に使われているカルピスバターは、「マッターホーン」で使用していたため、そのまま関矢製菓の職人が受け継ぎました。カルピスバターは、厳選した牛乳から生まれた“幻のバター”で、カルピス40本から1個しかできないという貴重なバターです。その当時よく売れたのはサブレ、レモンケーキ、ペチニ(小さいお菓子という意味)で、周辺の町工場に活気があったため、その贈答用として30個入りの箱を10箱購入するなど、一人のお客様が大量に購入していたそうです。
 

3:尚文社長と親族で守った支店時代

二代目社長の尚文は、子ども時代の家業の手伝いに始まり、大学時代は洋菓子セキヤのカウンターボーイとしてアルバイトを経験し、ハムサンド、タマゴサンド、ミックスサンド、トーストなどの軽食を作りながら接客・販売を行なっていました。大学を卒業した後、1974(昭和49)年の4月に関矢製菓に入社し、本格的に製造に携わるようになります。入社後は、金井氏が経営する神奈川の相武台前にある「モンテローザ」で修行しました。
 
1979(昭和54)年には、元々洋菓子店だった場所の内装・外装を変え、豊島店が開店。販売スペースのみの店舗だったため、西尾久店で製造したものを配送する必要があり、媾一が片道10分ほどの距離にある豊島店と西尾久店とを行き来していました。1970年代は、スフレやレアチーズなど様々な種類でチーズケーキがブームで、セキヤでもレアチーズ、スフレのチーズケーキを金井氏からレシピを伝授してもらい、お店に出すようになりました。好景気や大家族が多かった影響か、10個単位で買う人が多かったようです。
 
しかし、豊島店は土地再開発のために立ち退き要請があり、1987(昭和62)年に閉店することとなります。豊島店の閉店により、1988年に田端店が開店しました。
田端店も喫茶スペースを併設していましたが、軽食は扱わず、デザートケーキ、クレープ、アイスクリーム、紅茶やコーヒーなどを提供していました。
 
その後、初代社長・媾一の体調悪化により、妻の照子が代表取締役となります。また、田端店は、店長であるシェフが体調を崩し、12月の繁忙期を乗り切ることが困難となります。
西尾久店は売れ行きが好調でしたが、苦渋の決断をして田端店は200512月に閉店するのです。
 
その後は西尾久店1店舗のみとして、年に3回ほど、季節ごとのフェアを行なうなど、新製品の開発に力を入れました。その中で生まれた新商品が“あらかわ遊園ロール”です。その当時、地域名を冠した○○ロールというご当地ロールが各地で流行っていたことにヒントを得ました。
 

4:生まれ変わった洋菓子セキヤ

建物の老朽化や、禁煙が進むなど、時代の変化に応じて“洋菓子喫茶”の需要が下がったこと、また焼き菓子販売のスペースの確保のため、20078月に、二代目の関矢尚文が、約一か月間を要する西尾久店の改装工事に踏み切ります。当時、焼き菓子を強化しているお店が多かったことで、喫茶スペースをなくし、焼き菓子販売を充実させる運びとなったのです。同年9月に洋菓子セキヤはリニューアルオープンをしました。
 
開店当初からの包装紙が常連のお客様には浸透しているため、現在もそのデザインは踏襲していますが、社会的に簡易包装が好まれるようになり、簡易包装に切り替えていきました。包装紙のデザインに入っている天使、王冠などを改めてロゴとして採用し、天使を象ったショップカードを作成します。お店のイメージカラーは、アポロチョコのカラーと、美味しそうな印象ということから、ピンク×こげ茶色に決定しました。かつては、包装紙で全部包むのが主流で、なおかつセロハンテープを使わず包装していたために、ラッピングの技術は高度なものでした。現在は、ケーキを入れる箱自体に、洋菓子セキヤのロゴや荒川区を代表するあらかわ遊園、都電のイラストを入れ、包装紙で包まなくても洋菓子セキヤの商品ということが一目瞭然になっています。
また、西尾久店のリニューアルオープン時、ケーキ店を専門に手掛けているラッピングコーディネーターの方に依頼して一年間、シーズンごとにお店の飾りつけ指導をしてもらいました。その時々の内装写真を撮って、翌年に同じ飾りつけにならないような工夫を重ねています。
そして、かつては箱に詰めたら包装するのみでしたが、器に入れてから花の飾りやリボンを装飾するなどの、ラッピングギフトをスタートさせました。包材メーカーの季節のカタログから、お店のイメージに合うカラーや素材などを、従業員がそれぞれの好みで選んで発注し、その包材を選んだ従業員が自ら、ラッピングも担当しています。華やかに装飾することで、その商品自体もお店の内装として映えます。高度経済成長期は、大量にまとめ買いをするお客様が多かったですが、気に入ったものを少量プレゼントする時代に変化したため、ラッピングギフトの需要が高まっていきました。
 
2008年にはあらかわ遊園マドレーヌ、2010年にはおぐっこシューと、ご当地商品を次々と開発していきます。前者は、話題作りのために開発しました。前述のラッピングアドバイザーの方が、他店の情報やトレンドなどを参考にして、ご当地もの商品の販売を勧めたそうです。後者は、当時クッキーシューが流行ったことで開発しました。シューのサクサク感を保つため、注文を受けてから中にクリームを入れているのがこだわりです。「尾久の子どもたちの大好きなおやつになるように」との願いをこめて、「おぐっこシュー」と命名しました。発売時、地元の子どもたちを集めておぐっこシューを試食してもらい、その際に撮った写真を使用して大きなポスターも作成しました。商品が入っている、おぐっこシュー専用のいわゆる「ハンバーガー袋」は当時のアルバイトがデザインしました。
 

5:三代目社長・尚尊の洋菓子セキヤ継承の決断

大学卒業後、システムエンジニア(SE)として一般企業に就職した尚尊ですが、その時点ではお店を継ぐ意思はありませんでした。しかし、パートで働きセキヤの味に惚れ込んでいた妻の紀子から、この味を継承しなくても悔いは残らないのか、という問いかけがあり、20092010年頃に葛藤。悩んだ末に、SEの仕事にやりがいを感じてはいたものの、先代社長・尚文が作ってきた味を途絶えさせたくない、親子三世代にわたって地元のお客様に愛される味を守っていきたいという気持ちで、お店を継ぐ決意をします。小さな頃から父の背中を見て育ち、誕生日やクリスマスなどの忙しい時期には、スポンジを切ったりイチゴをのせたりなどの手伝いをし、高校・大学生のときには販売や製造補助などのアルバイトをしていた経験から身近な仕事でもあり、継ぐ意思を固めました。
一方、二代目社長・尚文と妻の理子は2009年頃から、理子が60歳を迎える頃には、セキヤは閉めるつもりで話し合いをしていました。よって、2010年頃に尚尊から店を継ぐ意思を告げられときは、自営業の洋菓子店は配偶者の協力が不可欠であり、なおかつハードな仕事なため、理子は危惧し、紀子に当時の仕事である、薬剤師を辞めて関矢製菓に入っても大丈夫なのか、10回ほど意思確認をしたそうです。
尚文は、セキヤを続けることへの未練はなく、息子には自分の好きな分野・得意分野を進んでもらえばいいと思っていたため、「継いでほしい」と言ったことはありませんでした。尚尊から店を継ぐ意思を聞いた際は、「あ、そうか」というほっとした気持ちとともに、関矢製菓が続くということで肩の荷が下りた思いでした。
 
2011年の3月、尚尊は勤めていた会社を退職。2007年の西尾久店のリニューアルオープンの内装を手掛けていた方の紹介で、他店舗も勉強するために修業をした後、セキヤへ戻ります。
 

6:顧客満足度向上を目指して

2011年から、ホワイトチョコレートのプレートを導入し、プレートにイラストを描く、手描きイラストプレートを使ったデコレーションケーキの販売をスタートしました。以前から、特注で職人がケーキにキャラクターを直書きで描いていたことはありましたが、いちごショートのホールタイプしか対応できませんでした。しかし、プレートを採用することで、ケーキの種類を選べるようになり、お客様の好みに応じた記念日のケーキが作ることが可能に。好きなキャラクターや、還暦のお祝いの似顔絵など、画のバリエーションが増えたのです。
作業の手順としては、まず印刷した絵などの上に透明なフィルムを重ね、絵の輪郭をペンで描き写します。その後、絵の輪郭が描かれたフィルムをチョコの上に置き、なぞるとチョコに溝ができるので、その溝を目当てにチョコペンで輪郭をなぞります。そして、その線の間に、尚尊自らが配合した食紅を混ぜたカラーゼリーを塗って色を入れるのです。ターゲットカスタマー(商品を購入してくれるターゲットの顧客)は、セキヤでは子育て世代のお母さんということもあり、ターゲットカスタマーにささるサービスに一層力を入れるようになりました。
また、地域活性活動の一環で、荒川車庫で年に2回(610月)車庫が開放される(コロナ禍は開催中止)イベントがあり、都電にちなんだ商品があると出店できるため、フィナンシェに都電の焼き印を押した「都電フィナンシェ」を考案し、あらかわ遊園マドレーヌも一緒に販売しています。
 
その後、和菓子の卸時代から続く工場の建て替え工事に入り、201410月に新工場が完成しました。
20153月には上野東京ラインが開通し、それまではご夫婦どちらかが地元出身で、実家にいた時代からセキヤに通っていただくお客様が多かったですが、外部から移住してきた新しい顧客が増えるようになりました。ターゲットカスタマーに向けたサービス充実など、尚尊の思い描いているお店づくりを目指し、紀子は尚尊をサポートすることを決意し、薬剤師を退職して2016年に関矢製菓に入社するのです。
 
7:地元顧客を大事にしながら進化し続ける洋菓子セキヤ
 
元々、インパクトのあるクッキーを得意先に配りたいという荒川区内の企業からの要望もあり、子育て中のお母さんであるターゲットカスタマーへのアピールや、もっと踏み込んだ形でのお客様のニーズに応えるため、2019年よりフードプリンターを導入しました。手描きのイラストプレートだと細かい描写ができないなどの制限がありましたが、データさえあればそのまま印刷が可能で、食べられるインクをクッキーに印刷しています。また、手描きのイラストプレートだと生産にも限界がありますが、フードプリンターだと対応できる数が増えました。店頭でiPadを持ち、お客様に画面を見せながら要望をヒアリングすることが可能です。プリントする内容は写真以外にも、ロゴや柄、お客様好みのデータなどさまざま。デコレーションケーキに載せる場合は発色重視のため、専用のクッキーを使用しますが、進物などに焼き菓子として入れる場合は、価格と味の両面から自家製クッキーをメインに使用しています。進物では、卒業祝い、会社の周年や記念品などあらゆる用途があります。
そして、LINEによる予約を20205月よりスタートしました。店頭や、ホームページで告知していて、LINEの“お友達”になった後、フォーマットに沿って入力するのみと簡単に注文が可能。昼間は忙しい主婦層でも夜に予約できます。
 
セキヤは、先代社長の尚文の時代から、同じメニューでも、配合を変えるなど時代に合わせて味を進化させ続けています。しかし、地元のお客様が多いため、昔からの味を知っているお客様にも抵抗がないように味を変える努力も怠りません。昔は甘みが強いのが流行でしたが、徐々に徐々に甘みを落としていくなど、マイナーチェンジをしています。製造元の都合で、原材料が変わることもあるため、そのたびの工夫も必要です。このように、親子三世代で通ってくれているような昔馴染みのお客様を大事にしながらも、新しい客層、味の嗜好の変化も大事にし、またターゲットカスタマーに合わせた販促を行なっています。これからも進化を遂げ、そして地域で愛される洋菓子店を目指していきます。